恋愛のゴールは必ずしも結婚ではありません。結婚しても必ず幸福になれるわけではないということは、結婚した多くの人が経験し、実感していることです。結婚を幸福なものにするか、それとも不幸なものにするかは、結婚後の二人の努力にかかっています。
結婚の未来は予測できない
結婚すれば必ず幸せになれるとうのであれば、結婚をためらうことはないでしょう。しかし、実際には結婚しても幸せになれないかもしれません。そのため、結婚を怖れている人は多いように思います。
いつまでたっても二人の関係が、付き合い始めたり、結婚したりした当時と全く同じままであるということはあり得ません。二人の関係が変化する以上、結婚した後の未来を予測することは不可能なのです。しかし、だからこそ人と一緒にいるのは楽しいのであって、あらゆることが予見されるようでは面白くないでしょう。
知らないことがあるからこそ、それを知るべく努力をするのであり、予見できないことが起こるからこそ、時にあまりに予想外のことが起きてパニックになることがあるとしても、生きることに喜びを感じることが出来るのです。
愛し合う二人は結婚がゴールであって欲しいと願うでしょう。しかし、結婚してから何が起こるかは分かりません。しかしだからこそ二人は愛する努力をし、愛を喜ぶことが出来るのです。
なぜ結婚に踏み切れないのか
一番多いのは、自信がないという理由です。時々会うのであれば自分の良いところだけ相手に見せることも出来ないわけではありません。しかし、いつも一緒にいるとそんなことは出来なくなります。だから結婚をためらうというのです。
結婚後、他の人を好きになるかもしれないから結婚できないという人もいます。しかしそういう人に限って、自分についてはそんなことがあっても仕方がないが、相手が他の人を好きになるのは許せないと考えていることが多いのです。
結婚したら自由でなくなる。これも結婚をためらう人が良く上げる理由の1つです。しかしこのように感じる人は、そもそも恋愛や結婚についての見方に問題があると言わなければなりません。一緒に暮らせば自由ではなくなるというのは自明なことではないのです。
結婚を約束した相手から子供が出来ないかもしれないと言われ、結婚を迷っているという人もいます。しかしそもそも、子供が出来るかどうかは誰にもわかりません。子供が出来なければ、二人が結婚することに意味がないわけでもありません。
親が結婚に反対するからと結婚に踏み切れない人もいます。しかし、親が結婚するのではありませんから、たとえ親が結婚に反対したとしても、そのこととは関係なく二人で結婚するかどうかを決めるしかありません。
打算的な人は相手を犠牲にしている
結婚に踏み切れないでいる人が結婚しようと思う時、相手がどんな人か分かりやすい人、結婚したらどんな未来が待っているか予想できるような人をパートナーに選ぶことがあります。つまり、相手自身というより、年収や社会的地位というような相手の条件を見て、「安全」な人かどうかを判断するのです。
そこで、お金を持たない人、定職についていない人は、初めからパートナーの候補から外されます。このような人と一緒になると、何が起こるか予測することが難しいだけでなく、予測できたとしても幸福にはなれないだろうと考えるからです。
また、結婚相手が有名であれば、そのことで自分の価値が高まると考える人もいます。
どんな形であれ、誰かが誰かを自分の欲求を達成するための手段として利用している限り、その人は相手を犠牲にしているのです。こうした、相手を犠牲にしている関係というのは、対等な関係とは言えません。このようなことは、二人が完全に対等であるということが理解されていれば決して起こらないことです。
対等ではない関係
結婚している二人が、どちらかのパートナーが経済的に優位であることを理由に相手の生き方に制限を課してしまうと、結婚生活が上手くいかなくなります。経済的優位は決して人間としての優位を意味するわけでもないのに、養ってやるというような大きな勘違いをしている人は多いです。
外で働く夫が「私は妻に経済的に何の不自由もさせていない」と豪語するようなことがあったら、妻はそれを喜ばないでしょう。子供の頃、親から「何をしてもいいが、自分で給料を稼げるようになってからにしろ」といわれ反発した人は多いと思います。
外で働くか、家事をするかは、男女で決められた役割ではなく、仕事の都合でたまたまどちらかがもっぱら外で働くか、家事をするかと決めたにすぎません。シンプルなことのはずなのに問題になるのは、家事についての社会の評価と意識が低いからです。経済的に不自由をさせてやっていないという人は、相手を一段低く見ているのです。
他にも、付き合っている、また結婚している二人のどちらかが甘やかされて育てられてきていた場合、最初の頃は大きな問題にならないかもしれませんが、後には困難な問題になります。とりわけ、二人が共に甘やかされた子供であれば、結果は悲惨なものになるでしょう。
「これは、どちらも与えようとしない何かを期待しながら、互いの前に立つようなものである。二人とも自分は理解されていないという風に感じることになる」
(by アルフレッド・アドラー)
甘やかされて育った人は、甘やかされることを期待するので、相手が自分に「甘やかし」を「与えて」くれることを期待します。そしてその「甘やかし」が与えられないと、自分は相手に理解してもらえていないと考えるようになるのです。
そのような人は、もしも自分の期待通りに動いてくれない人がいれば、そのような人に対して攻撃的になります。結婚のパートナーが何でも自分の望むことをしないからといって、この人とは一緒に生きていけないと考えるのは間違いです。
今の時代には、甘やかされて育った人は多く、貢献しないで注目の中心にいることが適切でない、つまり、甘やかされて生きることは適切ではないとは考えられていないように見えます。貢献しないで注目の中心にいることが適切ではないということが常識になっていれば、今日の問題の多くは回避されると思います。
子供が出来てからの困難
子供が生まれると、相手の呼び方を変える人がいます。夫のことを「お父さん」、妻のことを「お母さん」というふうに呼ぶ人のことです。子供の視点から相手を「お父さん」「お母さん」と呼んでいるのですから、よく考えるまでもなくおかしいのですが、その事に気づかない人は多いです。
子供を育てるためには夫婦の協力が欠かせませんが、家庭が子供を中心に回り始めると、そのことによる問題が起こります。
1つは、母親と子供が密接に結びつくために、父親が家庭の中で孤立してしまうことです。特に甘やかされて育った父親であれば、自分が注目の中心にいられなくなったことに耐えられなくなります。子供がライバルになってしまうのです。
もう1つは、お互いが「夫と妻」ではなく「お父さんとお母さん」になってしまうという問題です。やがて子供が親元からいなくなっても、相手を同じように呼び続けるということがあります。これは、二人のお互いへの思いが変わってきたことも意味しています。
ギリシアの哲学者であるアリストテレスは「哲学は驚きから始まる」と言いましたが、恋愛も同じように驚きから始まります。自分とは違った考え方、感じ方があると知ることは、人生を豊かにします。そうした驚きこそが恋愛を豊かにするのです。
参考文献:岸見 一郎 著『愛とためらいの哲学』(発売日:2018年2月15日)
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